薬剤師の誕生

薬剤師の誕生

「医制」は医薬分業により江戸時代以来の悪しき医療環境を改善しようとするところに本来の目的があった。医薬分業を推進するには、良質な医師の供給と同時に医薬品について十分な知識を有する薬剤師の育成が不可欠であった。「医制」第四章にはわが国薬剤師制の基本原則がはじめて記された。

 

「医制」第五十五条には、「調薬ハ薬舗主薬舗手代及薬舗見習二非サレハ之ヲ許サス」とある。
「医制」制定に先立ち、文部省は大学東校のドイツ人教師に諮問して「薬剤取調之方法」をまとめた。そこには、すでに売薬を政府による許可制とし、学術の有無を明らかにする試験を経て薬舗免
許を賦与する考えが示されている。「医制」にはまた、薬舗開業の手続きや薬舗が備えるべき機材、薬品が規定され、医師の処方箋によらぬ調薬を禁じている。

 

「医制」は、先にふれたように、医薬分業の方針から原則として医師の投薬を禁止したが、例外
として二等医師による薬舗開業を認めていた。医師だけではなく、患家の側にも依然医家に薬を求める慣行が色濃く残っていたことに加え、当時まだ薬舗の絶対数は著しく不足していた。かかる措
置はこうした現実を踏まえた止むを得ぬ対応であった。

 

「医制」制定後まもなく、政府は薬剤師不足に対応するため、京都、東京、大阪で薬舗開業試験を実施した。「医制」は製薬学校の卒業者に対し無試験で薬店主となる権利を認めていた。もっと
も製薬学校といっても東京医学校に定員二十名の製薬学科が設けられただけで、しかも明治十二年にはじめて九名の卒業生を送り出したにすぎなかった。明治十五年に「薬学校通則」が定められ、ようやく各地に三年制と二年制からなる薬学校が設置されることになった。

 

なお本格的な医薬品制度の確立は明治二十二年の「薬品営業並薬品取締規則」を待たねばならない。同規則の制定により、「薬局ヲ開設シ医師ノ処方箋二拠り薬剤ヲ調合スル」薬剤師の資格や薬局の制度が規定され、薬事法制は格段に整備された。しかし依然として付則において医師が自ら診察する患者の処方に限り自宅において薬剤を調合、販売することが認められていた。薬剤師に免許制が導入されたのは、医学と薬学とが本来各々独立した学問であり、欧米では行政上の便宜から医薬分業が広く行われているとの理由からであった。それにもかかわらず、薬剤師の不足や薬局の分布状況から医師の投薬を容認したのである。

 

医師の調剤権が恒久化することを阻止し薬剤師の業権を守るため、明治二十二年以降も薬剤師連合会は積極的に医薬分業問題を取り上げた。医師側にも学問的かつ経済的な問題提起を行い、意見書を提出して理解を求めた。薬剤師らは医薬品の取扱いには高度の専門性が必要との観点から、法改正を求めて政府、議会に働きかけた。だが、医師と比べ数の点で劣勢な薬剤師は十分な政治力を発揮できず、結局医薬分業は見送られた。これ以降現在に至るまで事実上医薬分業は実現をみることなく、薬事行政に対する「医制」の日和見的な性格は今なお受け継がれている。

 

もちろん医薬分業にも問題点はあった。医薬分業の当初の目的は無資格のいかがわしい漢方医が投薬する弊害を除くことにあった。医師の資格が法定され、西洋医学を学んだ良質な医師の供給が進む一方、薬事法により医薬品の売買が規制されると、もはや所期の目的は達せられ、むしろ医薬分業の欠陥が指摘されるようになった。確かに医薬分業によって、診療と投薬が分離され各々専門家の手に委ねられることになるが、患家の側は以前にも増して負担を負うことになる。診察料のほ
かに薬代を払うわけであるから、患者の経済的負担が増すのは当然である。全体として医療費も増加し、低所得者層が容易に医療を受けられなくなるおそれが生じた。この問題はすでに長谷川らに
より明治二十年代から指摘されていたが、依然今日医薬分業のデメリットに挙げられている。